グイノ・ジェラールの説教 



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      年間第13主日B年  2015628日   グイノ・ジェラール神父

       知恵1,13-152,23-24  2コリント8,7-913-15  マルコ 5,21-43

   今日の福音は、二人の女性の悲劇をテーマとしています。 癒されない自分の病気のせいで、一人はもう子供を産むことが出来なくなったので、夫と夫婦の関係を結ぶことが出来ません。 会堂長の娘は、せっかく結婚する年齢になったのに、死に直面しているので結婚することも子供を産むことも不可能となりました。 ご存知のように、当時のイスラエルの文化に属する女たちにとって、一番不幸な事は、結婚しないで独身でいる事と結婚しても子供に恵まれない事です。

   もしイエスが自分の家に来るなら、娘がきっと癒され、生き残ることが出来ると絶望の淵からヤイロは確信しています。 同様に病気で、すべての医者に見放され、酷く苦しんでいる女性は「この方の服にでも触れればいやしていただける」と確信します。 そのような訳で、ヤイロも彼女も希望と信頼で強められて、二人共ラストチャンスであるイエスに出会う為に、それを妨げる群衆を全く恐れていません。

   普通大きな問題とぶつかった人は、必ずそれを解決する方法を心死に探し求めます。 人々の自分勝手な意見や押しつけがましく高圧的な態度に、気を取られないで、問題にぶつかっている人は、希望を失わないで立ち直ることが肝心です。 十二年間苦しんだ女性は病気の為に貧しくなって、医者からも見放されました。 癒されない病気のせいで彼女は不潔な者だと決められ、社会生活から追い出されていました。 ひとりで自分の病気に直面しています。 奇跡を行なうイエスが町に来たと聞いて、自分の心に“生きる”と言う大きな希望が湧き出し始めます。 「不潔な者である私でも、彼の服に触れさえすれば、今度こそ癒されるに違いないでしょう」と思い込みました。 そう思うと急いで、自分の体の弱さにもかかわらず、律法の掟も無視して、彼女は密集した群衆の中に入り、必死の思いでイエスの服に触れました。 すると直ぐに、彼女は癒されました。

   イエスと彼女の間には、もはや隔てるものは何もありません、彼女の信仰が彼女を救いました。 ご自分の体から力が出たと感じたイエスは、彼女を探します。 それは群衆に彼女の信仰の証しを聞かせる為です。 イエスは、彼女に対する人間味を示し、社会の中で彼女の立場を取り戻し、そして彼女に生きる目的を与えました。 そうすることによって、彼女は夫婦生活を取り戻し、いつか子供を産むことも出来るのです。 また、彼女を大切にする事によって、イエスはすべての人に親切さと心配りを示す者であることを現す為です。 一方、ヤイロがイエスに近寄った時に彼は会堂長であったので、この偉い人の前で群衆は彼が通れるように道をあけましたが、病気の女性の為には群衆はそれをしませんでした。 そんな訳で、イエスの世話を受ける前に、ヤイロは信仰の内に忍耐強く、今癒されたばかりの女性の長い証しが終わるのを、待たなければなりませんでした。

   残念なことに、会堂長の家から人々が来て娘の死を告げます。 イエスは直ぐヤイロに「恐れることはない。 ただ、信じなさい」と、力づけました。 娘のところに来て、イエスは彼女に命の賜物を与え、そして、感謝と喜びにあふれる両親に元気な娘を返します。 この少女は結婚する希望、そしていつか子供を産む可能性を命の賜物と共にイエスから受けました。 ほんの少しの人々の前でイエスは「自分が命であり、復活である」(ヨハネ11,25)事を証し、啓示しました。 知恵の書が教えているように「神が死を造られたわけではなく、命あるものの滅びを喜ばれるわけでもありません」。

   どんな状況の中に置かれていても、神に信頼する事、希望を失わない事の必要性を、イエスは私たちに教えます。 このように行う人は「希望するすべもないのに、なお希望を抱くことです」(ローマ4,18)と聖パウロは説明します。 キリストは死に打ち勝ちました。 私たちはそれを信じ、それを宣言します。 イエスは私たちが抱いている希望の汲み尽くせない泉です。 イエスは命の道であり、世の終わりまでその命を私たちに豊かに与えます(参照ヨハネ10,10)。

   ですから、いただいた命の賜物の為に神に絶えず感謝しましょう。 若者も、年寄りも、独身者も、結婚した者も、キリストと親密に一致しながら、命の証人となりましょう。 アーメン。



     年間第14主日B年     201575日   グイノ・ジェラール神父

          エゼキエル2,2-5   2コリント12,7-10    マルコ6,1-6

    聖霊で満たされた預言者エゼキエルは、困難と出会う為に神が自分を遣わしていることを理解します。 いくら彼が神の言葉を正しく伝えていても、イスラエルの民は決して彼の言葉に耳を傾けないことを知っています。 同様に、父なる神に遣わされたイエスも自分の故郷では受け入れられず失敗をするし、また聖パウロも自分の使命を果たす為に多くの苦しみを耐え忍ばなければなりませんでした。 自分の失敗を受け止める為に、今日の典礼は私たちを助けようとします。 実現したこと、それは特に皆の利益の為でした。 失敗や失望に直面する時、私たちは謙遜に受けとめて信頼を持ち続けるようにしなければなりません。 何故なら、私たちは神が必ず私たちの弱さを助けることを知っていますから。 「わたしは弱いときにこそ、強いからです」と、聖パウロが言いました。

    酷い失望がナザレの村でイエスを待っていました。 ナザレの人々はイエスに対して先ず驚き、そして躓いてショックを受けました。 聖ルカによると、彼らの態度は段々とイエスに対して敵意へと変化します。 「彼らは総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとしました」(ルカ4,28-30)。  ナザレの人々がイエスの話に耳を傾けたのは、イエスの言われたことを実現する為ではなく、むしろイエスを裁く為でした。 自分たちが望んでいた方とイエスは全く違うので、彼らはイエスを見捨てました。 ナザレの人々にとっては、イエスは「大工でマリアの息子である」と言うだけです。 彼の親戚はナザレの人々には良く知られているので、イエスが歩く説教者の仕事をするよりも、大工の仕事をするように希望していました。 それに対して特に聖マルコによると、イエスの親戚の人たちは「イエスの気が変になった」と言う理由で、続けて二度も彼をナザレに引き戻そうとしました(参照:マルコ3,2132-35)。

  ナザレの人々はイエスをよく知っていると思い込んでいましたが、それは思い違いでした。 人を完全に知ることは到底無理です。 人はいつもあらゆる面で解決できない神秘です。 私たちは人の外面的な部分だけは知ることができます。 私たちは人の身体的な様子を説明でき、その人の仕事について話すことも出来ます。 またその人の家族的、社会的な状態も述べられます。 また、私たちは人の習慣、欠点、長所、について語ることが出来ます。 しかし、これらのことはただ人の人格の外面的な一面です。 人の内面的な部分は、神だけがよく知っておられる神秘です。

  「私たちが知っていたこのイエスは、全く違う新しい人だ」とナザレの人々は言うべきでした。 しかし、彼らはキリストに対して新しい発見をするよりも、自分の頑固な考えに閉じこもってイエスがもたらす新しさが彼らの内に入りませんでした。 この態度は度々私たちの態度です。 「私は福音をよく知っている、信仰の内容もよく知っています。  ですから、聖書の勉強や信仰をリフレッシュすることは私には必要ではありません」と私たちは言いがちです。 私たちは昔、要理を勉強したから、そして毎日曜日ミサに行っているからと思っているなら、もしかしたらそれは、イエスをよく知っていると思い込んでいるだけなのではないでしょうか。 果たして、本当にイエスと個人的に出会っているでしょうか。 私たちはキリストの親密な友となる為に十二分に努力しているでしょうか。 キリストを実際に知るために、キリストと共に生きる強い望みが必要です。 「わたしにとって生きるとはキリストです」(フィリピ1,21)と聖パウロは断言します。

   信仰の絆によって、私たちはキリストの兄弟姉妹となりました。 ですから、イエスの親類に属する恵みを謙遜に受け止めましょう。 噂によってではなく、定期的な祈りや聖書の黙想の内にキリストと出会い、キリストを今よりも、もっとよく知るように信頼を持って努めましょう。 もし、万が一祈ることが難しくなって、あるいはまた聖書の朗読について集中することが難しくなっても、心配する必要はありません。 何故なら、聖パウロが言ったようにイエスが私たちの弱さの内に働くからです。

   聖ヨハネは自分の福音のプロローグのところで、次のように書きました。 「みことばは、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。 しかし、みことばは、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」(ヨハネ1,11-12)と。 私たちが皆、本当に神の子になる為に、私たちがその望みを持ち続けますように。 アーメン。



    年間第15主日 B年  2015712日   グイノ・ジェラール神父

          アモス7,12-15  エフェソ1,3-14  マルコ6,7-13

  神の国を告げ知らせる為に、イエスは初めて自分の弟子たちを二人ずつ組みにして遣わします。 彼らは出かけるに際して、杖一本と履物のほかは何も持つことができませんでした。 しかし、新しい使命を受け、幸せに酔いしれた弟子たちが、杖を持ち、履物を履く事を忘れる可能性がありました。 杖は彼らの歩みの支えになり、履物を履くことによって弟子たちは長い旅を続ける事ができます。 しかし、疲れと足の痛みを言い訳にして弟子たちは、旅の途中で休み、もうこれ以上進めないと簡単に決めてしまう可能性があることをイエスはよく知っています。

   キリストによって宣教に遣わされている人々は、あらゆる妨げとなるものを捨てて、助けとなる、役に立つ物を持たなければなりません。 しかし、何が助けとなるのか、何が捨てるべきものであるのか分りませんので、人は必要なものを捨てて、役に立たないものをとっておく危険性があります。 その為にイエスは、遣わされた人々に信頼の内に歩み続ける事を願います。 弟子たちがある家に入って、もてなしを受けるなら、旅立つまで、その家に留まるようにイエスは勧めます。 誰かが必ず手厚いもてなしで自分を歓迎すると知るなら、荷物になる役にたたない物を持ち歩くことは必要ではありません。

   遣わされた弟子たちは、旅の途中で彼らを歓迎し、養い、親切に対応する人々と必ず出会う事をイエスは約束します。 弟子たちはどうしてもそれを信じなければなりません。 結局、彼らにとって唯一、必要な荷物とは、出会う人々が自分たちを助けると言う事を信じる事です。 神の愛は他の人々によって、具体的に示されていることを私たちも信じなければなりません。

  「わたしはあなたがたを狼の群れに羊のように遣わす」(参照:マタイ10,16)とイエスは弟子たちに忠告しました。実際に弟子たちが出会う人々の中には、自分たちを迎え入れずに追い出し、侮辱する人がいる可能性もあります。 確かに、弟子たちが出会う多くの人々は、無関心で、助けも食事も与えずに、彼らの反対者や敵になる可能性が多いです。 しかし、この可能性が弟子たちの信頼と信仰をゆがめてはいけません。 「あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようとしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落しなさい」とイエスは断言します。 決して人々が強制的に弟子たちの話に耳を傾け歓迎するように、自分たちが手に持っている杖で人々を脅してはいけません。 むしろ、弟子たちは受け入れられないなら、その受けた失敗から埃の一粒さえ持たないようにすぐ出発しなければならないとイエスははっきりと勧めます。

  神における信仰は、いつも私たちと私たちが出会う人々を神秘的に繋ぐのです。 「はっきり言っておく。 私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことであり、またしなかったのは、わたしにしなかったことだ」(参照:マタイ25,4045)とイエスはすべての人に思い起こさせます。 ですから「自分だけにより頼まないように」これこそイエスが私たちに与える賢い勧めです。 私たちは信頼を持って、隣人の親切な心により頼むことを学ばなければなりません。 神の助けによって、そして神の摂理を信じる事によって、私たちは心で育てている自分の信仰と希望を人々の前で証しすることが出来ます。

  私たちは皆神の真理の言葉、救いの良い知らせに耳を傾けました。 イエスを信じる事によって、私たちは聖霊の保証を受けました(エフェソ4,30)と聖パウロはエフェソの信徒への手紙の中で思い起こさせます。 自分の信仰を証しするために、また失敗に直面しても絶望しないように、聖霊の力が私たちの内に働いています。 これについては、預言者アモスの模範が私たちに与えられています。 人々に見捨てられ、侮辱され、酷い目に会った預言者アモスは、神が与えた使命から離れませんでした。 むしろ失敗に直面して、アモスは自分の内に新しい力を汲んで、その使命を終わりまで果たしました。 「わたしを遣わされた方は神ご自身ですので、誰であろうと誰も決してわたしの口を閉じさせる人はいません」と、預言者アモスは声を高らかに宣言します。

  私たちもキリストに属していることを宣言する為に、このような使徒的な勇気で満たされるように神に願いましょう。 いずれにせよ、キリストが私たちの内におられる事を私たちの生き方によってはっきりと現しましょう。 私たちが、「父なる神の前で聖なる者、汚れのない者になる為に」世を創る前から神が私たちを選ばれたと言うことを、私たちはよく知っています。 ですから人々の前でも、神が私たちに望まれることを示すように、努力しましょう。 アーメン。



      年間第16主日B年  2015719日   グイノ・ジェラール神父

            エレミヤ23,1-6  エフェソ2,13-18  マルコ6,30-34

  福音は私たちに二種類の疲れを見せます。 委ねられた使命を果たす為に長く歩いた弟子たちの疲れ、これと同じように旅に疲れてサマリアの町の井戸に座っていたキリストの疲れがあります。 もう一つの疲れと言えば、「打ちひしがれている羊のようだ」と言われる人の疲れです。 イエスは彼らを見て「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみました」(参照:マタイ9,36)。

  第一の疲れに対して、イエスは弟子たちが人里離れた所で憩うようにと提案し勧めています。 事実を明かせば、イエスご自身が忙しい一日の終りにいつもなさることでした。 「イエスは群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。  夕方になっても、ただひとりそこにおられた」(マタイ14,23)。

  孤独の時も憩いの時もイエスにとっては、ご自分の使命の一部をなしているのです。 イエスの人生はあらゆる面で一致しています。 彼の人生は、父なる神に対して、そしてまた委ねられた使命に対する完全な奉仕です。 もし、私たちも一人で過ごす孤独の時と憩いの時を取らなければ、きっと自分の人生の意味を見失うでしょう。 それに加えて、神が私たちに語られる事に対して注意深さを失い、段々と神の語りかけに対して無関心な人になる危険性があります。 皆さんにも察しがつくように、くたびれ果てた人には聞く耳がありません。

  第二の疲れとは、病気の人や社会から見捨てられた人、あるいは人生の道に迷っている人の疲れです。 彼らは同じことを繰り返し耐え忍びながら、自分の人生の目的と意味を見失ってしまった人です。 身体的な疲れよりもこの疲れはもっと忍び難い疲れです。 自分の死に直面してイエスは祈るため、そして自分の使命を完全に果たすために、弟子たちから離れてゲツセマネの庭で最終的に一人になりました。 この状態の中でイエスは父なる神の助けと力を受けました。 私たちも絶望する時、イエスを真似ることをしましょう。 なぜなら、人生の試練にもかかわらず、私たちが歩み続ける力を神がくださるからです。

  神は私たちを牧すること、即ち世話をすることを預言者エレミヤに約束しました(エレミヤ23,2)。 イエスは神との約束を実現しました。 それは、病人を癒し、人々の信頼を取り戻し、イエスを求めてついて来た群衆に教える事によってでした。 確かにイエスは憐み深い父なる神の目に見える姿です。 私たちは主イエスの内に良い牧者を受けました。 この良い牧者(羊飼い)は、それぞれの羊を丁寧に扱います。 永遠の昔からイエスは「私たちを深く憐れむ」お方です。 イエスはいつもご自分を探し求める人を出迎えます。 いくら群衆がイエスを追いかけようと、イエスはご自分の疲れを忘れて、すぐ彼らの要求に応えようとします。

  イエスに倣って私たちも自分の疲れや心配事を忘れて、必要とする人に憐みの手を差し伸べることが出来ますように。 ご存じのように、この世を支配する人たちは、預言者エレミヤの時代の悪い羊飼いのように、国民から責任を託されたにもかかわらず、国民の幸せの為に働くよりも、自分たちの個人的な利益を満たそうとします。 長い歴史の中にも、憐みを具体的に示した王や大統領は稀です。 ですから、私たちを支配する人々に神が良い決定をするように勧め、そして彼らを教え導くように祈りましょう。 フランシスコ教皇に委ねられた神の民であるキリストの教会が、憐みと愛徳の泉となるように、この教皇の為にも祈りましょう。 最後にお互いの為に祈りましょう。 それは私たちと関係がある人々に対して、キリストのような振る舞いを表す為です。 更に、神のうちに休むことを学びましょう。 それは神の心から湧き出る憐みと聖霊の力が私たちにも豊かに与えられるためです。 アーメン。



     年間第17主日B年   2015726日   グイノ・ジェラール神父

         列王記下4,42-44   エフェソ4,1-6   ヨハネ6,1-15

   「あなたが持ってきた物をこの人々に与えて食べさせなさい」と預言者エリシャは、名前も知らない一人の男に命令しました。 同様に、ある少年が持っていたパンと魚を数えきれない大勢の群衆に与え、食べさせるようにイエスは弟子たちに命じました。 不思議なことに、エリシャの時もイエスの時も、人々が欲しいだけ食べても食べきれず、たくさんの食べ物が残りました。

  食べることは、毎日の欠かせない必須のことです。 普通、私たちは他の人から日常の糧を受けます。 生まれてからずっと私たちは、成長する為に両親から必要な糧をいただきます。 大人になって、私たちが造られたのは受ける為と与える為、そして食べる為と食べさせる為だと分かります。 生きる事とは、受ける事と与える事です。 分かち合いはいつも「無限への世界」の門を開きます。 分かち合いは豊かさを引き寄せ、偉大なことを実現させます。 あるフランスの諺が教えているように「小川が集まって大きな河となる」言い換えれば「塵も積もれば山となります」。

   二人が持っていた物を寛大に捧げましたので、預言者エリシャもイエスも奇跡を行って、大勢の群集に満腹するほど食べさせることが出来ました。 預言者エリシャの名前も知らない一人の男と福音の少年が、惜しむことなく人々に必要な物を分かち合ったので、素晴らしい結果を得ることが出来ました。 彼らが捧げた物は大地の実りであり、人の労働の実りでした。 彼らが行なった事は誰にでも出来る事ですので、私たちに次のように言わせます。 「わたしは預言者エリシャでもなく、イエスでもありませんので、群衆を養うことは出来ません。 しかし、私が持っている必要な物から、何かを捧げる事が出来ます」と。 神は、奇跡を行う為に私たちの協力を要求なさいます。 神は、殆ど可能性のない、取るに足りない物で、人には無理だと思われることを可能にされます。 信仰は、何か欠けるという恐れを追い払います。 今日、私たちが歌った詩編は、神の摂理を思い起こさせます。 「神よ、人があなたに目を注いで待ち望むとあなたはときに応じて食べ物をくださいます。 すべて命のあるものに向かって御手を開き、望みを満足させてくださいます」(詩編145,15-16)

  ご受難の時にイエスは父なる神の手にご自身を捧げました。 「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23,46)と。 イエスは世の終わりまで全人類を養う命のパンです。 「これを取って食べなさい。 これはあなたがたの為に渡されるわたしの体である」と言ってイエスは自分を真似るように私たちを招きます。 「これをわたしの記念として行ないなさい」と。 言い換えれば「世の救いの為にあなたがたも自分自身を神に捧げなさい」とイエスは私たちに願っています。

  ミサに参加する度に私たちは、キリストの御体と御血になるパンとぶどう酒を神に捧げます。 私たちを養いながら、キリストの体は私たちの内で永遠の命の泉となります。  これこそ、ミサ祭儀の時に神が私たちの為に行う最高の奇跡です。 また、キリストと共に自分自身を良い供え物として神に捧げる事によって、私たちはこの世を救うキリストの御体と御血となります。 ですから、私たちは惜しみなく寛大な心で、出来る限りのことを神に捧げましょう。 その代わりに、神は豊かに永遠に溢れるご自身の神的な命を、私たちに与えて下さるでしょう。 アーメン。



      年間第18主日 B年     2015 82日    グイノ・ジェラール神父

         出エジプト16,2-412-15  エフェソ4,1720-24  ヨハネ6,24-35

   イエスは人を日常生活のレベルから霊的なレベルまで導く為に、話している相手を驚かせる習慣があります。 たとえば、目が見えない、どこから来るか知らない、風のイメージを借りて、イエスはニコデモに聖霊の働きについて話します。 また、自分自身が永遠の命の泉であることを啓示する為に、イエスはサマリアの女にヤコブの井戸の水について語ります。 同様に前日パンの増加で養われた群衆に、パンと魚はただ単なるしるしであることを理解させる為に、イエスは自分自身を、永遠に私たちを養う天から降ってきた真のパンであることを教えます。 イエスは賞味期限のあるパンではなく、永遠に人を養うパンです。

  「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」(申命記8,3)と、聖書は教えます。 イエスは神のみ言葉であり、永遠の命のみ言葉です。 従ってイエスの言葉は、養い、癒し、赦し、そして悪霊を追い出します。 いくら今日の福音の人たちが「神の業を行うために、何をしたらよいでしょうか」と尋ねても、彼らはイエスの言葉を受け止める為の覚悟をしていません。 その為に、イエスは彼らに向かって次のことを主張します。 「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」とイエスは断言します。 キリストを信じること、そしてイエスが述べている神ご自身の言葉の真実を信じることを、全ての人に要求されています。

   しかし、イエスの言葉は確かに解りにくい言葉です。 イエスの人を面食らわせる言葉を受け止めるよりも、一切れのパンと焼いた魚を食べる方が簡単です。 「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(ヨハネ6,35)と言うイエスの言葉を果たして、信じることが出来るでしょうか。 聖ヨハネの話によると、この言葉を聞いた大勢の人たちがイエスから離れ去りました。

   では、私たちはどうでしょうか。 イエスは私たちにとって命のパンであることを心から言っているでしょうか。 即ち、生き続ける為にイエスは私たちの必須の糧であると言えるでしょうか。 永遠に残るものを神の手からいただく為に、私たちは日常生活の欲望を乗り越えることが出来るでしょうか。 いったい私たちは、「上にあるものを」(コロサイ3,2)充分に探し求めているでしょうか。

   額に汗を流して、苦労しながら得た地上の食べ物では、私たちは死を避けられません。 イエスが私たちに与えるパンは、全く違うものです。 このパンが死に打ち勝ち、復活の恵みを与えるのです。 その為に私たちは自分の欲望を満たそうとするよりも、神の望みを実現する為に、働くのは相応しいことです。 神を知ることは自分を養う為のもう一つのやり方です。 神を知ることによって、人は自分の内の魂と体の健康を保ち増進させることが出来ます。 イエス・キリストの望みと彼の最後の掟は、彼が私たちを愛したように私たちは互いに愛し合うことです。 主の祈りを祈る時、私たちは神に前日の日のパンが残るように願いません。 また、明日私たちが飢えないように、神が余分にパンを与えることも願いません。 ただ、その日の為のパンだけを願います。 この生きたパンであるキリストが、私たちの体を養いながら互いを結び合わせ、聖化させます。

   ですから、命の賜物を信頼を持って受け止める恵みと、イエス・キリストに対する忠実さによって、この命の賜物を豊かにする方法を神に願いましょう。 聖霊が私たちにミサ祭儀への愛、また神への飢えと渇き、さらにイエスが私たちを愛したように私たちも互いに愛し合う決意を与えて下さいますように。 聖体拝領の時、キリストの体を受けることによって、私たちは愛である神に対する私たちの信頼を新たにするように招かれています。 そして、この信頼を自分の存在のあらゆる面で示すように召されているのです。 命のパンであるイエスは、「道であり、真理であり、命である」ことを恐れずに宣言しましょう。 アーメン。



     年間第19主日B年   201589日    グイノ・ジェラール神父

        列王上19,4-8  エフェソ4,30-5,2  ヨハネ 6,41-51

   神と出会う事は可能でしょうか、不可能でしょうか。 聖書はアブラハム、ヤコブ、モーセ、ヨシュア、そして預言者サムエル、エリヤ、イザヤ、エゼキエル、ダニエルが、神を見、神と出会った事を教えています。 しかし「父を見た者は一人もいない。 神のもとから来た者だけが父を見たのである」(ヨハネ6,46)とイエスは断言します。 きっとこの言葉を聞いた聖ヨハネは憤慨したでしょう。 何故なら、自分の福音の初めに聖ヨハネはこの言葉を、もう一度、書いたからです。「いまだかつて、神を見た者はいない。 父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(ヨハネ1,18)と。

  理論的に考えれば、神と出会うことが出来る為に、人は父なる神の子としてご自分を紹介したイエスに向かうべきです。 カファルナウムの人々はキリストの話を聞いて非常に憤慨しました。 彼らは、「神が息子を持っている」などと考える事も、想像する事も出来なかったからです。 特に良く知られている両親の息子、即ち隣の村から来たイエスが神の息子であるというような、とんでもない話を受け入れるのは不可能でした。 しかし、イエスは「自分が天から降って来たこと」の事実を理解させようと説明します。 確かに、神はイエスを遣わしました。 イエスを信じる者があれば、神はその人をご自分の方へ引き寄せます。 残念なことに、唯一の神を堅く信じる人々にとっては、キリストの説明は不可解な話であり、そして、さらに悪いことには神を冒涜する承諾できない話です。 カファルナウムの人々にとっては、イエスは避けるべき危険な異端者でした。 イエスは奇跡を行う事ができると皆が認めますが、彼が「神の子」であり「天から降って来た生きたパン」であり、また「彼だけが神を見た」と主張し宣言するイエスを信じる事は絶対に出来ませんでした。 自分だけが神を見たと主張するイエスの話が真実ならば、神を見たと証ししたアブラハム、モーセ、そして預言者たちは、皆嘘つきという事になりますから。

  イエスは理論的な説明を与えない人ですが、力強く「神に引き寄せられ、神から教えられる為に」自分の話を聞くべきだと主張しています。 何故なら、イエスは神が遣わした者ですから。 この真理を受ける為には、私たちは謙遜と信頼の態度を表すことが肝心です。 預言者エリヤは、殺される恐怖と絶望の試練を通して、神に仕え、自分を遣わした神の心を、以前よりも少し理解しました。 預言者エリヤは、神は死を与える神ではなく、命を豊かにする神、そして「天使たちのパンで」ご自分の選んだ僕たちを養い、強める神であることを悟りました。 「天使たちのパンで」力の回復を受けた預言者エリヤは、長い旅の後に、神と出会う山に辿り着きました。 預言者エリヤは神を見ませんでしたが、神の声を聞き、神の慈しみ溢れる現存を深く感じました。

  私たちは「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなど、すべての悪から離れて、キリストに倣って愛の内に生きるように」エフェソの信徒への手紙の中で、聖パウロは勧めています。 神と出会い、神との親しい現存を味わう為に、私たちは謙遜になり、信頼を示さなければなりません。 また、自分たちの持っている頑固な考えと見方を捨てると同時に、信仰の試練を克服する事を承諾しなければなりません。 更に、神と出会い、神との親しい現存を味わう為に「強い人のパン」(詩編78,25)、「天使たちのパン」(詩編78,25)、即ちイエスのみ言葉と私たちの救いの為に引き渡されたイエスの体を食べなければなりません。 絶望のどん底に突き落とされたエマオの弟子たちは、復活されたイエスと出会い、彼の言葉と分かち合ったパンによって強められた人となりました。

  「これを食べ、これを飲み」と神の天使は預言者エリヤに命令しました。 「これを取って食べなさい、これを取って飲みなさい」とイエスは私たちに命じます。 永遠の命のパンをいただきながら、私たちは試練に耐え忍ぶ力と神への旅路を続ける勇気を受けています。 神と親しい関係を結ぶ為に、キリストの御体は私たちに自己中心から神へ移る可能性を豊かに与えます。 同時に私たちが他の人々を慰め、力づける為に キリストの御体は父なる神の慈しみ深さを私たちに与えます。

 ですから、今日のミサ祭儀に当たって、神がご自分の御顔を私たちに見せてくださるように願いましょう。 詩編の言葉を借りて次のように祈りましょう。 「主よ、あなたは私たちに言われる『わたしの顔を尋ね求めよ』と。 主よ、わたしは御顔を尋ね求めます。 御顔を隠さないでください」(参照:詩編27,8-9)。 アーメン。



   聖母被昇天(年間第20主日)B年  2015816日  グイノ・ジェラール神父

             箴言9,1-6  エフェソ5,15-20  ヨハネ6,51-58

   知恵の道を進む為に、自分の愚かさを捨てるように、箴言の書が私たちを誘っています。 また、聖パウロも私たちが愚かな者としてではなく、知恵のある人として生きるように強く勧めています。 イエスの話を聞いた人々は、その言葉の意味が理解できないので、イエスを愚かな者だと思い込んでいました。 更に、私たちの信仰に与っていない人々も、マリアを祝い、彼女の無原罪と被昇天の恵みを信じている私たちは、愚かな者だと思っています。

   神の知恵は、愚かなものだと昔から思われています。 この神の愚かさについて、聖パウロはコリントの教会への手紙の中で長い説明をしました(参照:1コリント1,172,16)。 イエスご自身も神のなさることを「知恵のある者や賢い者は理解できないが、幼子のような者や小さい者たちが簡単に理解できる」(参照:マタイ11,25)と断言しました。 ミサ祭儀の神秘はおとめマリアの神秘と親密に結ばれているので、人々はそれを中々理解できません。 確かに、キリストの体がマリアの体とただ一つである神秘に一致しています。 なぜなら、キリストが受ける対立と敵対は、いつも母マリアの心を深く刺し貫くからです(参照:ルカ2,34-35)。 今日、私たちが祝い、記念するこの神秘こそ神の知恵です。

   すべてを理解できなかったマリアは、いつも神の内にだけ自分の信頼をおきました。 彼女はすべてを理解できない、その上にすべてを説明することはできませんが、それを信仰の内に承諾し、思い巡らします。 現にお告げの日に、マリアは天使の言葉を理解できませんでした。 また苦しみの3日間の後、エルサレムの神殿で自分の息子をようやく見つけた時、イエスが自分の弁明をする為に言った言葉を、マリアは全く理解できませんでした。 人々に対して、いつも深い憐みと慈しみを示した自分の子が、どうして恐ろしい暴力と憎悪の犠牲者にならなければならないのか、十字架の足元でマリアは全く理解できませんでした。 しかし、このような人間の愚かさについて嘆くよりも、信仰を持って、母マリアは自分の心の静けさの内に避難所を見出し、そして神の知恵の内に自分の信仰をおきました。

   マリアはいつも理解できなかったことを信仰の内に受け止め、思い巡らせました。 「神の考えは人間の考えではない」(参照:イザヤ55,8-9)ということをマリアはよく知っています。 見た事や聞いた事について静かな心で黙想する事によって、マリアは自分に啓示されている神の神秘に深く入ります。 神のはしためのマリアはすべてを理解できませんが、神が自分の為に自分の内に偉大な業を行っている事を認め、承諾し、信じます。 神の考えと希望が自分を超える事をマリアは承諾します。 神の前で謙遜なマリアは、取るに足りないでしたから、神は彼女をご自分の栄光にまで高く上げました。

   信仰がなければ、神の神秘を受け理解する事は不可能だとマリアは私たちに教えています。  信仰によって自分が神の母となる事をマリアは理解しました。 十字架の足元でマリアはすべての人の母となる事も理解しました。 自分の愛する息子の遺体を抱きしめながら、マリアはキリストの復活を信じます。 弟子たちと共に祈りながら、マリアは近いうちに聖霊が皆にくだる事を信じます。 人生の旅路を歩み続ける為に、マリアはいつも神の言葉を自分の支えとします。 その為に、エリサベトはマリアに次のように宣言しました。 「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じたあなたは、なんと幸いでしょう」(ルカ1,45)と。

   神のみ言葉に導かれて、マリアと共に歩む人は何と幸いでしょう。 なぜなら、その人の前に人間の知恵では理解できない、見知らぬ神秘的な空間が開かれます。 残念なことですが、人生の問題や試練を乗り越える為に、私たちは自分の持っている知恵だけに判断を委ねる事を好みます。 神と共に愛の偉大な冒険を生きる事を恐れているので、私たちはマリアが深く味わった喜びと幸せを全く体験できません。 「被昇天」という単語が「上にある永遠に残る物事を探し求める」(参照:コロサイ3,2)ことに私たちを誘います。 自分が持っている人間的な知恵と知識を超えるように、これこそ、被昇天の神秘を通して神の知恵が私たちに提案していることです。

   私たちの母マリアと共に親密に信仰に生きていきましょう。 マリアの母性的な祈りに支えられ、マリアの傍で歩みながら、神の知恵の深さと神の愛の言い表せない神秘の内に一段一段高く昇りましょう。 神が私たちの為に行った不思議な業を、信仰を持って真心からマリアと共に味わい、たたえ、喜び踊りましょう。 アーメン。



     年間第21主日 B年  2015年8月23日   グイノ・ジェラール神父

         ヨシュア24,1-2,15-18  エフェソ5,21-32  ヨハネ6,60-69

   「あなたがたは唯一の神に忠実に仕えるか偶像礼拝をするか選びなさい」とヨシュアは約束の地に辿り着いたイスラエルの民に尋ねました。 皆がそろって「神を捨てたくない、神に忠実に仕える」と答え、誓いました。 イエスは自分の弟子たちに「あなた方は、人を惑わせる私の言葉を信じて、私の傍に留まるのか、或いは他の人のようにその言葉を拒んで私を捨てて離れるのか、どちらかを選ぶように」と、尋ねました。 ところで、聖パウロが皆に選ぶべき事として強く願うのは、離婚と軋轢と喧嘩を避ける為に、夫婦が忠実さと一致を選ぶ事です。

  結婚式で互いに愛と忠実の誓いを約束し合う事は簡単です。 約束の地の土を踏み、その国の豊かさを見ながらイスラエルの民が神に対する忠実さを誓う事は簡単でした。 しかし、長い時間の経過の試練は、愛と忠実の絶え間ない激しい戦いを要求する事を教えています。 人を惑わせ、理解しにくいキリストの言葉を拒むことは簡単です。 しかし、その言葉を受け入れ、承諾する人は長い時間をかけて、キリストの言葉は真実であり、幸福をもたらすことを体験し理解します。

   最近、人々の考えと欲望の流れに逆らっているカトリック教会の教えが、大勢の人から批判され、見捨てられています。 イエスの時代にキリストから離れた人々のように、多くのキリスト者が教会から離れます。 世界の動きと考え方、それに加えて自分たちの欲望が無視されているので「イエスのみ言葉、教会の伝承と教えは、実に酷い話だ。 誰が、こんな話を聞いていられようか!」と、彼らは文句と苦情を言います。 私たちの理論と理解を惑わせる神の言葉や、或いは教会の勧めを無視する度に、私たちはキリストから離れた人々を真似ています。 もし万一、カトリック教会が離婚、中絶、安楽死、そして背徳のすべてを承諾すれば、もはや「聖なる教会」ではありません。 もし万一、カトリック教会が世界の流れに従ってしまうなら、もはや「神の声」ではありません。

   「あなたがたはこのことにつまずくのか。 それでは人の子がもといた所に上るのを見るならば…。 命を与えるのは『霊』である。 肉は何の役にも立たない」と、イエスは断言しました。 キリストの言葉も教会の教えも、必ず人を惑わせ、人を落とし入れる躓きの石です。 それを防ぐことが出来ません。 何故なら、神が語られる言葉の意味を悟るには、人が抱いている自分の人間的な考えや理論を壊し、それらから離れるようにしなければならないからです。 ちょうど子供が歩き方を学ぶ為に何度も倒れるように、信仰の道をきちんと歩み続ける為に、人は惑わせる事や躓く事や倒れる事を承諾しなければなりません。

  神の神秘に深く入る為に信仰の試練、信仰の暗闇が必要です。 自分の考えと理論だけに頼る人にとっては、神の教えは愚かなものです。 しかし、真理は全人類が知っている、或いは理解していることだけに限っていないと信じる人は、神が語ることが知恵と真理だと分かります。

  「主よ、あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。 あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」と力強くペトロは断言しました。 きっとペトロは他の人と同じように、イエスの話を全く理解していなかったと思われます。 しかし、ペトロと彼の仲間たちはイエスを信頼する事を学びました。 イエスと共に留まる事によって、乏しい事や不足している事がないと、弟子たちはよく知っていました。 「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。 あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」と、ペトロは皆の名において宣言しました。 イエスの弟子たちは、キリストの言葉を完全には理解できない事を承諾します。 しかし、彼らはキリストの言葉が真理と命であることを何度も体験したので、イエスから離れないようにしました。 それは正しい選びです。

 「あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」とペトロが言いました。 「信じる事がなければ、知ることは役に立ちません」ということを日常生活が具体的に私たちに教えています。 自分が病気だと言われても、それを信じない人は健康診断や薬も拒み続けるでしょう。 同様に、健康診断の良い結果を見て、心配しなくても良いと言われても、それを信じないで自分が病気だと思い込んでいる人は、不安な生活を続けるのです。 同様に、イエスが永遠の言葉を持つ方だと知っていても、もしそれを信じないなら、この知識だけでは私たちを救うことが出来ません。 信仰だけが神の神秘を自分の体の一部として合体させます。 「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(ヨハネ6,54)とイエスは約束します。 イエスが宣言した言葉を自分の体の一部として合体する人は、必ず生き残ります。 それを信じ、それを宣言し、そして精一杯生きていきましょう。 アーメン。



     年間第22主日 B年  2015830日    グイノ・ジェラール神父

     申命記 4,1-2,6-8 ヤコブ 1,17-18,21-22,27  マルコ 7,1-8,14-15,21-23

   自分の心を清めるよりも、雑用や自分のしたいことを行う方が易しいと私たちはよく知っています。 また、自分をコントロールし、奥まった自分の心の部屋で神の前に生きるよりも、目立つことをしながら自分の主義に忠実であり続けることはとても簡単です。 このような理由で、私たちの心にある自分中心の考えについて、明白さと識別を持つ人となるようにイエスは願っています。 ですから、偽善に手を貸さないように私たちは慎重なキリスト者になりましょう。

   神がモーセに与えた十戒は、時の流れと共に613もの細かい掟となりました。 ファリサイ派の人々は、それらを神の十戒と同じように重視しました。 この613の掟は「昔の人の言い伝え」と呼ばれていました。 ファリサイ派の人々が、神の掟を捨てて、人間の戒めを大切にする傾向をイエスは度々批判しました。 「なぜ、あなたたちは自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのですか」(マタイ15,3)と、イエスは厳しく咎めます。 イエスはまた、何回も繰り返して次のように断言しました。 「あなたがたも聞いているとおり、こうしなさい…しかし、わたしは言っておく、こうしなさい」(参照:マタイ5,385,44)と。 イエスは律法を廃止することなく、むしろ律法が伝える本当の意味と目指す重大な方向をはっきり見せようとします。 大切なことは「神の愛の掟」を行うことで、「人間の戒め」の中にあるのではありません。 聖ヤコブは今日の手紙のメッセージを通してそれを思い起こさせました。 「みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です」と。 何よりも先ず愛することが大切です。

   人間の戒めが愛することを妨げ、人を奴隷にし、挙げ句の果てには偽善にまで人を引き込んでしまうのです。 イエスは、ご自分に倣って弟子たちも自由な人となるように望んでいます。 私たちの言葉と行いの間にある「ずれ」をイエスはずっと咎めるでしょう。 私たちの言葉が自分の心に抱いている考えを表すように、イエスは強く望みます。 偽善は人の目を眩ませることを、イエスはよくご存じだからです。 偽善者はいつも人々を騙しているので、いつか自分自身を騙すことになるのです。 自分を隠す仮面なしに生きる事を学びながら、私たちの「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」(マタイ5,37)であるように努めましょう。 このように生きることによって私たちは神を見ることを可能にする心の清さを受けるのです。 「心の清い人々は、幸いである。 その人たちは神を見る」(マタイ5,8)。

  人間の心から出て、人間を汚すものについて話したイエスは、私たちの内面的な状態が第一であることを理解させようとしました。 残念なことですが、私たちはその逆だと思い込み、考え続けるのです。 確かに、人々は私たちの外面的な姿と態度に基づいて私たちを裁くので、私たちはそれがとても大切だと思い込んでいます。 しかし神は「人間が見るようには見ない。 人間は目に映ることを見るが、神は心を見る」(参照:サムエル記上16,7)と聖書は教えています。

   ですから、回心することは自分の考え方と振る舞いを変える事です。 回心することはどんな状況の中であっても、愛することが出来る自由な人となることです。 それはちょうどイエスが自由になさったのと同じように。 そうすれば、私たちはイエスが与える自由の中に生きることが出来、限りのない愛で愛することも出来るでしょう。 ですから、謙遜に、心を清める、神を見ることを可能とする「神の子供の自由」(参照:ローマ8,21)をイエスに願いましょう。 アーメン。






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